禅とは何か?仏とは何者なのか?
和尚との対話 新宮禅寺第13代住職圓光裕氏②
当店店主が人吉・球磨の僧侶たちを訪ね禅とは何か?仏教とは何か?を考えるシリーズです。
当店に隣接する 新宮禅寺第13代圓光裕(つぶら こうゆう)氏との対話の第2回目。
T=圓住職 S=佐藤
S:興味本位何ですけど、気がついたら「仏の人生」ってどんな感じだったのですか?物心ついたら「お寺に住んでいる」という感覚は?
T:先々代、圓月曻というもので、祖父なんですけど、小さい時から共に寝て暮らして全て教えてもらいました。小学生くらいには、お寺の仕事ほぼ全てできるようになっていました。お経もその時すでに唱えられましたから。
S:小学生ですでにお経!?。凄いな。その祖父さまはやっぱり厳しいお方でした?
T:いや、全く。一度も怒られたことなかったですし。父が厳しかったですね。
ただ、今振り返ると、父は少し悔しかったのかも知れません。
S:悔しい?
T:父は学校の先生が生業でした。大学は駒沢大学で仏教を学びましたが、祖父からほとんど教えてもらってないようです。その代わり私がマンツーマンで祖父から教わり、小さき時にすでにお経など含め知識的には父を超えてましたから(笑)
圓住職は黄檗宗の本山である京都・萬福寺で修行され、祖父、父が亡くなられて13代目として新宮禅寺住職をスタートされました。
苦しみの原因は何か?
S:今回、この企画を考え、原稿内容を精査してほしいとお願いしたとき
住職から「それは、佐藤君の考え、解釈でいいんじゃない」と言われたのが印象的でした
T:禅に対しても、黄檗宗に対しても、いろんな考え、解釈があっていいと思う。
自由に解釈できないことが苦しみの原因の一つだと思うから。
幸せの定義も人それぞれでいいんじゃないか。お金、家族、いろんなところに幸せを求める人がいてもいいんじゃないかな。
S 最近勉強したんですけど、禅における「意」とは、現代で使っている「意」とは少し違いますよね
T:そうです。仏教語、禅語としての、「如意」とは、意の如く、つまり思い通りになるといいますか、我欲のままになるのでなく、この時の「意」とは、自分と他人の境界を超えた、森羅万象に通じる仏の心を指しています。つまり美しい仏の心のままになるということを意味しています。
S:自他を超えた境界のない心?
T:難しい解釈だけど、仏の心とは、智慧と慈悲があり、それは認許とも言い換えることができます。自分とは違う価値観を認め、自分と一つにする、ある意味
自分を空(から)にすることです。
S:先ほど住職が言われた、いろんな解釈があっていいというところにつながるんですね。ボーダレスの心か・・・
自分と他人の境をなくす心。正直かなり難易度が高い気がしました。理想であるけど、実際実現可能なのか?ただ、それが実現した時、そんな人が増えたら間違いなく世の中はいい方向へ向かうんだろうなという直感はありました。ブッダは悟りを開いたと言います。悟りを開いた後、その教えを広めようとしたとすれば、その時、私と同じ感想、理想だけど実現可能なのか?と感想を持った人がたくさんいたと思います。ただ、目の前に、それを実現した人=ブッダがいたからこそその教えは広がったのでしょうか?